以前、職場の先輩とご飯を食べに行った時のはなし。

その人は普段から社交的で、気が利き、人をまとめるのが上手なタイプ。取引先からのイメージもよく、明るく真面目で社内での評価も高い。とっさに言うジョークでけっこう場が和んだりもする、なんというか、バランス感のある人である。

話の途中、ひょんなことから出身地の話になり、「長野県出身です」と言ったら

「長野県ってどこやったっけ?どこらへんにある県?」

と返ってきた。冗談かと思ったので、「ど真ん中にある主張強めの県ですよ」と笑いながら言ったら

「あぁ、そうか、長野って真ん中にあるのか〜」と返ってきた。

話を聞いたところ、どうやら昔から地図を覚えるのが苦手らしく、何回覚えようとしても都道府県の場所を忘れてしまうらしい。


「何県がどこにあるとかが全く分からへんのよ〜」


と、特に引け目もなく、堂々とした様子でその人は言っていた。それはまるで「生魚は昔から食べられないんだ〜」と言うぐらいの、ごくごく普通な主張に見えた。

一連の振る舞いが自然だったので、聞く側も特に気を遣ったりせず、なんとなくその話が終わった。自分の特性を受け入れて、他人にきちんと話せる感じがなんかすごく良くて、憧れに近いものを抱いた。


欠点は克服すべき?

普通とされていることが苦手だったり出来なかったりする時、多くの人は、なんとか自分の力で克服しようとする。その過程で自分と他人を比べて落ち込んだり、自信を無くしてしまったりすることも良くある。

でも、本当に”欠点”と思われている部分を克服する必要はあるのだろうか?というのが最近考えていること。


わたしは病院で発達障害(アスペルガー)の診断を受けていて、以前、ASDのためのコミュニケーション教室のようなところに通っていた。

ASDの人が社会生活を送る上での負担を軽減するという目的で、そこでは一般的なコミュニケーションの方法や、会話の中の質問の意図などが講義の形式で教えられる。生徒も参加型で、いわゆる”社会性”のようなものを身につけていく場だった。

こういう質問が来たらこう答える、のような型をひたすら学ぶのが毎回の授業の内容。

こう攻められたらこう動く。チェスのルールを学んだ時の感覚に似ていた。
授業後は、それこそ「戦法」を身につけた気持ちになれて、とても自信がついたことを覚えている。


しかしいざ日常に放り出されてみると、「これはあの型だっけ?」とか「これはどのパターンに当てはめればいいんだっけ?」とか規範に縛られて段々と身動きが取れなくなる。
ダンスを習っていた子は、ダンスを習っていない子よりもクラブで自由に踊れないらしい。今なら良くわかる。

結局、会話自体を全然楽しめなくてどんどん苦しくなっていった。学んだことを活かせばもっとよくなるはずだ、と毎日反省会。考えるほど底無し沼に沈んでいくような。


もっと良くあろうとすることを止めてみる。

先天的な個人の性質というものは、ある程度の対処は可能だが、基本的には変えられないものとしてあるがままにしておくのが良いと思っている。

なぜなら、長野県の場所が覚えられなくても、会話で変なことを言って場の空気を乱してしまっても、結局のところ生きていけるからだ。

わたしは会話の意図を汲み取る点ではてんでダメだが、幸い他人に優しくすることができたので、なんとか職場でもプライベートでもやっていけてる。

“できないこと”を血のにじむような努力で”できること”にするよりかは、「できなくても大丈夫な仕組み」を作ったり、もしくは諦めて他でカバーすればいい。そして、それを許容する社会であって欲しい。


ASDの教室に通うのはやめてしまった。自分のあるがままを受け入れて暮らしたほうが、何倍も何倍も生きやすくなった。

ある程度のコミュニケーションの型と、アドリブの要素、つまり規則と不確定のバランスがとれているほうが、よっぽどヘルシーな人間らしさに繋がるのではないか。

怖いけど、”もっと良くあろうとすることを”キッパリやめてみることで、初めて自由に体を揺らして踊ることが出来るかもしれない。

(model:松森木乃) 

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