贅沢とは、贅沢な精神を持つことである。

これは私の大好きな作家、森茉莉(もりまり)のエッセイの帯に書かれた一文。

日頃から座右の銘として胸に刻んでいる大切な言葉だ。

森茉莉って?

もうご存知かもしれませんが、森茉莉とは森鴎外の娘。生活は貧しかったが、想像力を絶やさずに”贅沢貧乏”を追求した小説家/エッセイストである。

(右から2番目が森茉莉)

もともと彼女は生粋のお嬢さんで、生まれた時から身の回りの世話をお手伝いさんがするような家庭で育った。しかし、鷗外作品の著作権が切れ、印税収入が得られなくなると状況は一転。原稿を書きながらの極貧生活を強いられることとなる(wikipediaの記述からするとこの時40歳ぐらいだったそうです)。

”贅沢貧乏”暮らしの始まり

そして、この貧乏生活から生まれたのが『贅沢貧乏』というエッセイ集。

このエッセイを執筆していた頃、彼女は下北沢の古いアパートに住んでおり、貧しい六畳一間の畳部屋を宮殿のように飾り立てて暮らしていた。上に”赤”がつくほどの貧乏だったが、寂しいのはお財布だけ。心の豊かさを忘れずに、日々耽美に暮らしていた。

私がこの本を初めて読んだのは大学生の時だったが、その美学を貫く徹底した姿勢と、縛られない自由な生き方に憧れ、「この人をロールモデルしよう」と心に決めたものである(育ちは違いすぎるが)。

(箱本。装丁が可愛いぃ)

森茉莉の紡ぐ言葉は、ユーモアにあふれ、優雅で、とにかく自由。都会の一人暮らしで心が折れそうになった時、何度この本に助けられたことか…!

今回は、そんな森茉莉のエッセイ『贅沢貧乏』の魅力を、自分なりにskinsの皆さんに紹介したいと思います、これをきっかけに、手にとってくれる人がいたら嬉しいな。

自分だけのブレない美学

森茉莉作品の人気の理由として、美しさへのこだわりという要素が一番大きいと思う。

美は美であっていつでも最大のものだと、魔利(マリア=自分のこと)は信じている。美はどんなものより大きなものだから、宗教にも、悪徳にもどっちにも関係がない。理論にも思想にも関係がない、と思っている。

『贅沢貧乏(マリアはマリア)』より

この文からも分かるように、森茉莉にとって美とは一種の哲学であり絶対的な基準だった。お金がなくても、美しいものに囲まれて暮らすことを生活の最優先としていた彼女。贅沢貧乏ではこの工夫を凝らしたアパートの描写が、淡々と美しく続いていく。

白い皿の上に散っているボッチチェリの薔薇、菫(スミレ)の花弁の柔らかな紫は、その上に伏せられた洋盃(コップ)の透明の下に匂いを散らし、洋盃の後には鳥の模様を置いたロオズ色の陶器が、移っている。

『贅沢貧乏』より

棚の上には、マヨネエズの淡黄、西洋酢の透明、牛酪(バタア)の黄、ラアドの白、が並び、薄緑のキャベツは濃紅の果物入れから溢(こぼ)れている。濃度のある牛乳の白と、トマトジュウスの薄紅、苺ジャム缶の濃く暗い緑。それらの陶器、缶、野菜、硝子(ガラス)の群れは、ところどころに、午(ひる)の陽光や夜の電灯の光を浮べて、夜はその一つ一つが、細やかな星の形に、光っている。

『贅沢貧乏』より

実際の部屋は…?

これだけ優美な描写で書かれると、まるで中世ヨーロッパの貴族のような暮らしが思い浮かぶが、実際のところ森茉莉の部屋はだいぶ汚かったらしい(笑)

方法はすべて魔利(マリア)独自のやり方であって、見たところでは、何処が豪華なのか、判断に苦しむわけである。

『贅沢貧乏』より
(たまたま訪れたリサイクルショップ。森茉莉好きそう)

あの黒柳徹子さんも一度この部屋を訪れたそうだが、「ゴ○○○が目の前をササーッと横切って消えていった…」というエピソードを話していた笑。

森茉莉にとっては他人の基準は一切関係なく、頼るものは自分の審美眼だけ。そこが大好き。彼女の文章を読むと、その豊かな視点を借りて世界を眺めているような気分になれる。

(ここはやっぱり特権だが、)幼い頃からフランスやパリの文化に触れてきたからこそ、日本人には持てない独自の美意識を育めたのだと思う。

もし自分が同じ部屋に住んだとしても、同じ現実の見方は決してできない。西日にあたるジャム瓶の美しさに日常的に気付ける人って、どのくらいいるのかな。

チャーミングな人柄

森茉莉の魅力は文章だけでなく、そのチャーミングな人柄にもある。天真爛漫で、おしゃべり好き。ユーモアに溢れていて、けっこう怠惰(ここ大事)。

比喩でもなんでもなく、生まれてこのかた箸やお茶碗よりも重いものは持ったことがなかったので、とにかく力がない。お嬢様育ちゆえの生活力のなさを、ユーモアを交えて自虐的に綴っている。

贅沢貧乏の中ですごく好きなのが、洗濯物を絞る力さえないので、身体に衣服を巻きつけて水を切っている描写(笑)。読むたびに毎回笑ってしまう名シーン。

洗うのはいいが、絞るのが難事業である。冬の長い下着を絞るときのマリアの格好は、ラオコオンの彫像よろしくで、肱(ヒジ)に引っかけてまだ余ったのは肩にのせて、異様な形で渾身の力を振り絞るのである。時によると自分で吹き出しそうになるが、側に人がいなくても、聴えるところに部屋があるから、懸命に笑いを噛み殺すのである。

『贅沢貧乏』より
(↑ラオコオン像)

彼女は基本的にずっとだらだらしているのだが、生活における怠惰な一面は、自分を見ているようで親近感が湧く。“毎日千円が天から降ってくるなら、茉莉は原稿など一枚も書かない”という一文もあり、原稿書きたくないよ〜と愚痴をこぼす場面が、このエッセイだけでも何度も出てくる笑。

自分の部屋では食事と化粧、入浴以外には原稿を書くのでも読書でも、すべて寝転びながらで、マリアの人生は寝転びの人生なのである

『贅沢貧乏(マリアはマリア)』より

お姫様がそのまま大人になったような人で、生活力も経済力もゼロ。でも、持ち前の明るさと聡明さで、あらゆる人を惹きつける魅力があったことは間違いない。

文章そのものの魅力

そして、エッセイで語られている内容ももちろん面白いのだが、文章そのものにも抗えない魅力がある。

彼女の書く文章は、スピーディで予測不可能。華やかかつユーモアに溢れ、たまに鋭い指摘が入る。

当て字と横文字のオンパレードなので最初はけっこう読みにくいが、だんだんとクセになって堪らない。どの作家にも例えられない唯一無二の美しさだと思う。

エッセイの内容は、父鴎外のこと、日々の暮らし&料理、文壇への毒舌、友人についてなど多岐にわたり、他人のブログを読んでいるような感覚に近い時もある。気がつくと話題が変わっていることもしばしばで、文章は優雅に脱線を繰り返す。

たまに話が逸れすぎると、「あ、そろそろ閑話休題〜」みたいなノリで、何事もなかったように話を戻す。超がつくほどのマイペース。

想像力を絶やさないこと

森茉莉についての本を読むと、あらゆる人が口を揃えて「常に夢を見続けているような人だ」ということを話している。

“お金を使う贅沢に想像力は入らない”と森茉莉自身が言っているように、彼女が意味している「贅沢」とは、自分の想像力をフル動員させた心のありかたでもある。

家事には無能、その上にかてて加えて贅沢病であるから、生活方法には魔法が必要である。

『贅沢貧乏』より

彼女は日々の生活に、魔法をかけ続けて暮らしていた。そうすれば、ただの布団もボッティチェリの色調に、市販の缶詰めを極上のフランス料理に変えることだって出来る。彼女のいう「贅沢」とは一貫して心のありようのことなのだ。

さいごに

森茉莉の本に出会ってから、貧乏に対してのイメージが開かれて明るいものになったし、今の余裕があるとも言えない生活の中で、ちょっとした贅沢を見つけられるようになった(贅沢貧乏以外のエッセイ/小説も一貫していて、凄く面白い)。

他人に見せびらかしたりすることなく自分の好きなものをきちんと好きだと思えること、身の周りのものを眺めては愛しいと思える日々を送ることが、今の私にとって一番の贅沢だ。

自分の体につけるものを綺麗にしておくこと、下手なお洒落をすること、自分のいる部屋を、厳密に選んだもので飾ること、楽しい空想の為に歩くこと、何かを観ること、これらのこと以外で魔利(マリア)は動かない。

『贅沢貧乏』より

晩年の森茉莉は、一人ぼっちだった。貧乏であろうと、部屋が散らかろうと、自分の美学を守り続け、美しい文章を書き続けた。最後はアパルトマンの自室で孤独死していたのを発見されたそうだ。

あぁ 森茉莉、貴女に一生憧れ続けることでしょう。

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